「第一次世界大戦が終わった1918年頃笹森順造は、海軍兵学校の蔵書の中から闘戦経写本を発見した。笹森は非情な感激をもって精読し、その卓抜さに強く打たれた。爾来、研究に打ち込み、その高い教えの解釈を世に公にしようと志し没頭したのである。それから三十年の後、石垣金吾氏らの協力を得た笹森順造は長年の研究をまとめ、闘戦経釈義として発表したのであるが、広く世に問うまではいたらなかった。時、奇しくも闘戦経精神の体現者とも云うべき山岡鉄舟の命日に当たる7月19日、この闘戦経は遂に出版の日の目を見たのである。」
本書が生れるまで
闘戦経の作者は大江維時、あるいは大江匡房であるかと言われているが、大江氏の系図を 見ると人皇五十一代平城天皇の皇子阿保親王の後裔であって、親王の子、本主は大枝姓を賜 わり、その子音人は清和天皇の貞観十八年に上表して大江朝臣と改めた。代々学を以て名を 挙げ、千里、朝綱、維時、匡衡、挙周、匡房等は盛名を馳せた。匡房の三代の孫、広元は源 頼朝の政所別当として幕府政治の創業を完了した。その子孫から長井、那波、毛利、海東の 諸氏が出た。闘戦経は毛利氏に伝えられたと言われている。
第一次世界大戦が終わった一九一八年頃笹森順造は、海軍兵学校の蔵書の中から闘戦経写 本を発見した。笹森は非常な感激をもって精読し、その卓抜さに強く打たれた。爾来、研究 に打ち込み、その高い教えの解釈を世に公にしようと志し没頭したのである。ようやく稿を 脱したが、時あたかも第二次世界大戦、印刷所、書店は焼かれて発行能力を失っていた。遂に敗戦となり、この書は時を逸したのである。
それから三十年の後、石垣金吾氏らの協力を得た笹森順造は長年の研究をまとめ、闘戦経釈義として発表したのであるが、広く世に問うまでには至らなかった。 笹森順造が、この稀有の名著の研究をはじめてからすでに八十余年の歳月が流れた。
外箱小傷程度で特に目立った傷や汚れはありません。
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